ローテ有識者を待つ。

私を強くしてください。

おとうさーん。

つい先日父が亡くなった。63歳。一般的には多分早いんだろうな。

もっと辛い経験をしている人なんてたくさんいるし別に特別なことでもないんだけれど、やはり自分としては後悔が多い。というのも父との思い出をなかなか思い出せないから。いい人だったなとか尊敬できるなとか感覚ではしっかりあるけど、具体的なエピソードが薄い。30年近く関わってきた相手なのに。

忘れないように、そして後から何か思い出せるように今思い出せる父とのことと最低な自分のどうしようもない後悔を散らかして書いておきます。

 

亡くなるまで

2018年の1月、確か母から連絡があったように記憶している。

父に癌が見つかった。発見はなかなか遅かったようで、どれだけ生きるかはわからないみたいな話だった気がする。その時に自分はすごくショックで病状を詳しく聞こうとはしなかった。聞いたら答えが出てしまうのではないかと思った。

その後電話で両親と話すことになった。なんて言ったらいいのかも分からなかったけど父の声を聞くと自然と号泣していた。すごく恥ずかしかった。

私は人見知りです。そして自分を含めた人間に深い興味を持っていないような気がします。それは身内に対しても発動するものでして。両親の事も兄弟のことも祖父母や従妹家族のことも、詳しく知りません。中学生になったかどうかくらいからどんどん身内に気まずさを覚えるようになっていくのです。

父の生年月日もあやふや。父の日とかも長いこと祝ってなかった。家族という認識で敬意を持たなければいけない、そこにいる人という感じだった。

そんなだった奴が、父が病気って聞いて泣いてるんです。ダサくないですか。なにかあったときだけいいかっこする奴みたいで。性格の良さアピールしてる奴みたいで。道徳の授業中みたいな。一番嫌い。日頃の積み重ねを見せろ、と言いたくなるそんな奴に自分がなっていましたわ。

でもその時はちゃんと泣きました。なんで父なんだろう。何日も考えていた。

ちょうどその頃の私は自分のやりたいことに挑戦するのを諦め始めていた。ふらふら無責任に生きていこうと傾き始めていた。そして、このタイミングでも奮起しなかった。もう時間がない、そういう状況を力にできなかった。むしろもう嫌になってしまった。

半年ほどして自分のやりたかった仕事のできそうな会社に試用期間3か月で入ることになって、ちゃんと3か月で限界を感じ、向うにもNOを突き付けられた。目的もなくアルバイトを始めた。

ちょうどその頃に家族で十数年ぶりに旅行をした。大人になってする旅行ってこんな感じなんだな。でも何にも話さない。旅先の風景やおいしいごはん、なんでもないような話だけした。温泉に入るときに父の体をジロジロと見た。もうあと何回一緒にお風呂に入ることができるかもわからなかったから。ひどく変色していた。

 

それから「親孝行」という言葉だけ頭の中にぐるぐると回る。意識だけはさせられる親孝行。その形は何かもつかめないまま、どうなったら正解なのか、何をして達成されるのか、今更どんな顔して返していけばいいのか。

こういうことを感じたときに体裁やプライドを捨て相手の事だけ考えるべきだというのは後から学んだことで当時は背けて背けてのらりくらりやっていた。実家にも帰らず具体的な話もしなかった。たくさんの薬を服用していたが、どうやら抗がん剤治療もしているということだけ聞いた。だから変色してたのかな。

翌年の夏前くらいからバイト先の人に定期的に実家に帰るよう諭されて、それからはだいたい2か月毎に戻った。初めて手土産を考えるなんて作業をした。まだ食事の制限もなかっただろうか。そこも詳しくなかったから甘いものばかり買って帰った。年寄りには和菓子だろうくらいのもので。お花やフルーツは病気を連想して手が出せなかった。

父は時事のことを話したり、私の生活の事や将来のことをよく聞いた。報告できるようなことはなにもなかった。すぐに会話が終わる。

もう実家では何も話せる気がしない。父も自分もすぐスマホに向かってしまう。母には年が明けたら、春か夏にはもう一度旅行に行きたいなんて話をしていた。こっそり貯金をして偉そうに旅費払ったりなんかしてみようかななんて考えていた。

そうしてコロナが流行した。実家にも帰ることができなくなった。

叶わなくなったからって、自分が素直になれるようなこともなく。父と話す機会が増えたなんてこともなく。ただ死なないでほしいという気持ちだけ隠し持って自分の生活だけ考えた。とても愚かだった。

母から使っていた抗がん剤が効かなくなって別のものにしたと聞いた。体力もどんどんなくなっているようだった。それでも仕事はしていた。定年を迎えてからもまだ勤めていた会社に残っていた。昔からそういう人だった。

2021年の2月。父が一度意識を失った。入院中に突然口が回らなくなってしまってそうなったらしい。意識が回復して正常になってから父からLINEがきた。

「そろそろ限界だから、死んだらお経を読んでほしい」

コロナ禍でも死ぬときはそばにいてほしいということか、そもそも限界だなんて弱音を吐くなんて父らしくなかった。初めてそういうことを言う姿を見た。でも事実をつまらない見栄や嘘で隠すような人でもなかったから納得もできた。そして大学を辞めた自分の、進学校に通っていた過去何年間の意味を肯定するような言葉だった気もする。仏教校だったから。この願いは間違いなく本心だ。いつ死んでも涙を流さないと覚悟を決めた。

7月にお医者様から病状の説明があった。久しぶりに父に会った。

肺にある癌が転移し脳にできたものが悪化。髄膜炎を引き起こしたのが2月。

抗がん剤が効かなくなっている。次に使うものはもう効く確率が低く見込みは数%で、効いてもどこまでもつかは分からない。効かなかった場合はもう体はやられてしまって自宅に帰るような元気はないと思う。入院して治療をするか、自宅で緩和ケアをするか。治療をしなければ週単位で病状は悪化していく。

父はできるだけ自宅に帰ることを常々希望していた。明日死んでもおかしくはないから希望を優先し家族との時間をとりつつ苦しまずに終えたほうが幸せではないか、というようなニュアンスをそのお医者様の言葉から家族は受け取った。父はどうだっただろうか。

久しぶりに見る父は変わり果てていた。そしてそのときの数十分会っただけで、会話は一言くらいだった。6月に職場を退職していたのにねぎらいの言葉すらかけるのをためらってしまった。

父が自宅に戻ってきた翌日、苦しそうな父に仕事を頼まれた。書斎にある本の中から仕事関連のものを職場に送る約束をしたのだとか。もうほぼ動けないから本を探して整理してほしいということだった。まだ仕事の事考えてるやん。

父の部屋はたまに覗いていた。たくさんの本がある。すべてほこりをかぶっている。

その全て、タイトルを伝えただけでどういった内容かを把握していた。必要になりそうなものだけ送ると言って指示されたものだけ運んだ。父と同じ部屋でこんな作業をする、いつぶりかもわからない。

父は寝て、私は実家をあとにした。

2週間後に実家を訪れた。見たことのないベッドがあって父は寝たきりだった。苦しそうで会話ももうほぼできなくなっていた。それでも頭によぎったことを発するのはなんとかできていた。1週間は滞在できるからと思ったが父に向き合うのに少し恐怖心も感じた。苦しむ人間を見るというのは本当に辛い。犬の世話をするのとは訳が違う。どういうことを考えているのか、何がつらいのか。考えるだけで変な汗が出る。

母の提案でアイスをあげることがあった。これなら食べられるだろう、買ってきたものを半分に分け父の口に少しずつ運んだ。残りの半分は私が食べた。父と同じ場所で同じものを食べるのは旅行のとき以来だった。溶けかけたただのバニラアイス。こんな形でも幸せを感じた。

そうしているうちにもう会話できなくなってしまった。弱々しく水を要求するのみで食事は摂れなくなっていた。体を動かしたり氷を口に運んだり私にできそうなことは一通りした。どうしても実家を離れなけばいけない日ができ、話せない父にまたすぐ来ると伝え実家を出た。

そうしてすぐ父が亡くなった。看取ることはできなかった。

 

私は別に動じなかった。よく頑張ったなと思わずにはいられなかった。

母もけろっとしていた。母もよく頑張ったのだ。

お通夜も順調に進んだ。普段明るく冗談も言うような不謹慎で変わり者の母がようやく泣いていた。

自分だけがその斎場に宿泊した。棺の中の父はきれいだった。

いつも通りにしないと、油断すると危ない。他愛もない報告を父にたくさんした。

翌日の葬儀、夢中で経を唱えた。これくらいでしか期待に応えられない。最初で最後がこれってどうなの。逆によかったのかな。

見栄、強がりのようなものだけで時間を過ごした。なにより失った実感がなかった。

目の前で見てきたものは確かに事実だったし、その残酷さを心には刻んでいた。それでも実感がなかった。父を愛していなかったのかもしれない。泣かなかったのではなく泣けなかったのかもしれない。正常な人間の心を持っていないというわけでもないだろうに。

 

父との記憶

私がなんとなく覚えている父はもう40歳になっていた。仕事が好きだった。

くだらないギャグを言うのが好きな人だったし、その頃は厳格なイメージもなかった。怒ると怖いとは思ってたけど。

台所の母によくちょっかいかけてるのを見た。好きだったんだろうな。ケツ触ってたの覚えてるぞ。子供の前でするな。

子供が好きだったのか遊んでくれる日もあった。父の胡坐をかいた上に座るのがなんとなく好きだった。オセロや将棋をしたりもしたし、子供の遊びに寄り添ってくれる人だった。兄弟で好きだったポケモンを父もプレイしていた。攻略本を買って夜遅くまでゲームをしていたようだった。ポケモンカード遊戯王カードもルールをなんとか覚えて遊んでくれていた。公園に行くこともあったしテレビを一緒に見る時間も好きだった。

ちょっとしたお土産を会社から帰ってくる途中で買ってきたのもよく覚えている。お茶犬のキーホルダーみたいの集めてたな。無理して伊藤園飲みまくってたんやろう。出張先の甘いものとか。だから僕も甘いもの買って帰ってたのかもしれない。

そしてすごく怒られた。そりゃあもう怒られた。生意気だった自分は本当に父が嫌いだった。父は夫婦喧嘩もよくしていた。すぐ不機嫌になる。大人げないくらい。そんな人がことあるごとに叱ってくる。子どもながら、普段叱ってくるようなこと自分もやってるやんけと思っていた。きっと父のプライドの部分だったのだろう、しっかり遺伝しています。

小学生になって勉強が好きだと、そしてクラスメイトとそりが合わないと告げると中学受験を勧められた。そういうプランだったのかもしれないけど、すごい嬉しそうだった気がする。それから父の大学の話をよく聞くようになった。大体聞き流していたけど、大阪市立大学の出身らしい。私には縁のあるローテーション大学です。

それから勉強のことと大学、そしてちゃんとした会社に就職できるぞなんて話をたくさんされるようになった。仕事がほんとに好きな人だった。

中学生になって人見知りになって反抗期になってからはもう全く記憶がない。けど小学生の時と同じようなことの繰り返しだった気がする。父は仕事が忙しくなり、あまり家でも会わなくなったけど、会ったら大学とか仕事とかそんな話をされたような。どんどん抵抗感が出た。当たり前だけども、あの頃みたいに褒められるようなこともなくなっていった。

大学を決めるときも下宿をするときも大学を辞めるときもまぁ揉めに揉めた。一方的に私が力押しする形だったから全部納得してなかった。本当に申し訳ないことをした。こちらの精神的な弱さから不快な思いをさせた。それでも許してくれていた。向こうは常に大人の目線だったんだなぁ。

さぁ、本当に思い出せることが少ない。マジでごめん。

 

どんな人だったろう

とりあえず真面目で勤勉だった。仕事が好きだったイメージしかない。

朝早く出て夜遅くに帰ってくる人。作業服とかスーツとか仕事鞄とかきれいにして。

休みの日も仕事関係の本読んだり仕事関係で英会話必要になるって英語勉強してたり中々真似できないなーってことをやっていた。

PCや家電製品、あとは車なんかも好きだった。私には何一つ分からなかったけれどべらべらとしゃべっていて、あぁこの人はオタクなんだなと諦めたのを覚えている。姉も私もそういう部分があるのに守備範囲は全員違う。車に関する深夜の番組とか熱心に見てたなぁ。あれなんだったんだろう。

なんでも知っていた。というかなんにでも興味があったのかな。本はたくさん読んでいたしいろんな記事を印刷して持ち歩いていた。活字が好きだったのかもしれない。知識情報を持ったうえでどういう考えを持つかを大切にしていたのかもしれない。

ドラマを欠かさず観ていた。女優さんばっかり詳しくってあんたも男だねって感じもしたけども、2時間やってるようなサスペンスドラマなんかも好きだったし映画も観ていたような気がする。亡くなる少し前には、今クールのドラマ観終えられないのを心配していたらしい。オリンピックとかそこらへんよりドラマなんや気になるの。

意外と可愛いものが好きだった。ムーミンピーターラビットが特に好きで置物とかマグカップとかをよく見かけた。動物も好きでペンギンやハリネズミが好きと聞いたことがある。私と趣味が近い。飼っている犬にはなつかれていなかったけど、それでも犬に近寄っていっていた。手を噛まれていた。

くだらないギャグを言うような関西人だった。まぁあれくらいに生まれた関西人はそうだろうな、と納得できる。別に笑ってやるようなもんでもないけど、空気感はすごく好きだったなぁと今になって思う。暗いよりは明るい方がいいし。

これが好き!なんてことは基本言わずにひっそり楽しむような人だったけど、意外と知っていたなぁ。

柴田淳というアーティストがお気に入りだった。曲を聴くのも車でCDとか自室でMDでとかそういうので聴いていたんだろう、家族は聴いたことがなかった。ただ父が他に好きな曲があったことを誰も知らないから、よほど一途に好きだったんだろうな。

大人になってから柴田淳さんをテレビで見かけることがあったが、透明感のあるとてもきれいな人だった。声も魅力的で素晴らしい歌手。これは好きそうだ。やっぱお父さんセンスあるな。そして親子で好みが近い。私も今後はまってしまいそうですわ。

そういえば「柴田淳春から救急救命士の勉強するらしいよ、挑戦するってすごいねー」なんて話を父にしたときに「そうなんやすごいな」で会話終わった時にこいつはいよいよ死ぬなって感じたのを思い出しました。死ぬ間際も曲流してあげようか?って聞いたら今はいいって言われて真顔になりましたからね。

 

先日父が小学生だった時に書いた作文が出土しました。バカみたいな文章展開でよくあんなに賢い人になったなーなんて感心してしまった。冷静にブログの文章バカみたいな私なんですがね。

文章はバカみたいなんだけど、内容はとてもすごいものばかり。夏休みのある日を切り取ったものや休憩時間を描写したもの、想像しやすい伝わりやすい表現や切り口で記されていました。私には書けないものばかり。参ったなあ。

小学五年生の頃の作文なのだけれど、父は思ったことそのまま書いちゃう。これがバカっぽい。友達が薄情だとか。せっかくの夏休みに昼になるまで起こしてくれないのはずるいとか。あと両親や先生に対しての敬意が一貫している。当時の教育とはいえ敬語表現使って書かれていたのが印象的ですごいしっかりしているようにも見えた。自分は以前から癇癪もちな節がある、なんて俯瞰の記述もある。六年生になるから上級生の自覚をもって行動したいみたいなことまで書かれていてどんな小学生やねんなんて思いつつ、自分と同じような考え方してることとかもあってちょっとアツくなってしまう。学級会は全員参加しないとより良いものになっていかないからクラスまとめたい、なんて賛同しかできない。方法論では私はいつも間違えてきたけどね。

「友情とは固く、素晴らしいもの」という思っても口に出せない非常にさぶいことも書かれてました。マジかよ。きつ。ジャンプの漫画かよ。でも本当にそんなことを感じていたんだろう、父は旧友と年賀状のやり取りは欠かさなかったし恩師や会社の社長の書籍はずっと大切にしていた。単純に人が好きだったのかもな。

「将来仕事に就くなら」という作文もあった。係の仕事さえ継続しない自分に向いている仕事はあるのか。朝弱いから会社勤めは嫌だ。自分の好きなことをできるセンスもない。だから社長になって楽にお金を稼ぎたい。あー、またバカ出ちゃってるよ。

そういえば小学生のときに聞いたお仕事に関する話で印象に残っているのは、必ず「今の会社に運よく雇ってもらえている」と言っていたこと。仕事ができてお給金を貰えて家族を養えるのは幸せなことだって言ってた。小学生の作文の時点から働くことと向き合ってきて辿り着いた結論なのだろう。

朝弱かったのに朝から晩まで仕事してたのも亡くなる直前までずーっと続けていたのも、お世話になった人とのつながり、大切な家族のためだったり働ける幸せを感じていたからなのかもしれない。仕事好きってわけでもなかったのかもな。誤解していたのかも。まだふらふらしてる自分が恥ずかしいです。すみません。

 

母から聞いたのは死ぬ間際に

「闘病も、その後死ぬまでの姿も、死んでからの葬儀や手続きも、これも子供にしてやれる教育の一つだから見せてやれ」

って言っていたらしいです。自分が同じ立場だったときに果たしてこんなことを言えるか。尊敬できる素敵な父だったんだな、いかに幸せな家庭に生まれたのかと思うとともにその環境の大半を無駄にしてしまっていた後悔を感じずにはいられない。

これから自分の中にある父からの影響や身体的遺伝は全て誇りと思って大切にしようと決めました。

また何か思い出せますように。